ワークショップの「学び」について

ワークショップにおける「学び」をどう考えるか、っていうのは、多くの偉い先生も書いておられますが、池山も現場の感覚から、少し今の考えをまとめておきたいと思います。

 まず、今までの学校での授業の学び、というものを考えてみようと思うんですが、授業の学び、というのは単純に知っている人(先生)から知らない人(生徒)に知識を移す、または伝える、という仕組みで成り立っています。「これはこうです」と断定することで、いわば生徒の頭の中に知識をコピーしていくような感覚ですね。しっかりとコピーすることが成功といえるでしょう。

 そして、テストを考えてみると、答えはあらかじめ決まっていて、そこを伏せてある。そして、出された回答は「正解」「不正解」に分けられる。これが多くの場合の学校での学び、といえるのではないでしょうか。もちろん、知識の伝達というものが不要なわけはないので、これは一つの「正解」の形なのだと思います。

しかし、大人になってから直面する課題。「売り上げが落ちている」「利益が減っている」「クレームが増えている」「不良品が多くなった」など。これらの問題には、往々として「正解」はありません。つまり、伏せられていて、そこをひらけば正解が分かる、というものはないのが通常です。

 つまり、正解が用意されている学び、というのは「箱庭化」または「単純化」された「学び」なのではないか、と思うのです。ちょうど、自動車学校の校内コースのようです。自動車学校の校内には子供は自転車に乗っていないですし、信号無視をする車もいません。 仮免許で路上に出れば、あり得ないことが起こる可能性がある訳です。もちろん、免許を取って一人で運転するようになれば、責任もふりかかります。単純化された、校内コースとはやはりちがいます。

 ではワークショップの学びはどうでしょうか。ワークショップを設計するデザイナーは答えを隠してはいないのでしょうか。これは、難しい問題で、そういうワークショップもある、というのが一番正直なところでしょうか。では、池山はどう考えるのか。

もちろん、ワークショップのデザインをする側には一つの解を持ってます。でも、それはあくまでも「一つの解」であって、唯一の正解ではないのではないか。そして、ワークショップの参加者さんもそのワークショップを通じて「一つの解」を見つける(ないこともある)。そして、それももちろん唯一の正解ではない。

 その二つの解が必ずしも一致しなくてもよくて、デザインした側も、その参加者さんの「一つの解」を受け取って、学ぶことができる双方向性がそこにあるのではないか、と。

もう一つには、現代は社会も経済もますます複雑になってきていて、到底一人が得る知識を他の人間に伝えるだけの学びでは追いつかない時代になっているのではないでしょうか。

たったひとつの答えを伏せておいてそれを当てるという「学び」で対応できる時代はとうに終わってしまった。講師の考える答えをたったひとつの解として、断定できる時代はおわったのではないでしょうか。
 

ワークショップデザイナーやファシリテーターの持つ「一つの解」はあくまでも、「一つの解」にすぎず、参加者の「解」も含めた集合知を持って一つの叡智として編み上げる、それがワークショップの学びだと思っています。
 
これからの時代は「集合知」でないと勝負できない時代だと思っていて、一人のエキスパートや、アイディアマンや、マネージャー、リーダーが引っ張るのではなく、チームやグループの暗黙知を含めた「集合知」をいかに引き出すか、そして高めるかということがキーなのではないか、と思っています。そのためには、ワークショップによる「双方向性」の学び、というのが必要とされるのではないか、と思っています。

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